喜多川歌麿・大判3枚続

喜多川歌麿・大判3枚続

喜多川歌麿③

歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の表情だけでなく内面や艶も詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘(三河の出のたかが有名で歌麿の死に水をとったとされる)などを対象としたが、歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして、度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を描き続けた。

1804年(文化元年)5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけで、幕府に捕縛され、手鎖50日の処分を受ける。織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていたからである。これ以降、歌麿は病気になったとされる。版元たちは回復の見込みがないと知ると、依頼が殺到したという。二年後の1806年(文化3年)死去した。墓所は世田谷区烏山の専光寺。戒名は秋円了教信士。

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