※本ページにはプロモーションが含まれています。

政言 殿中でござる!

天明4年(1784年)春、江戸城内で衝撃の事件が起こりました。

若年寄・田沼意知(たぬま おきとも、宮沢氷魚)が、旗本・佐野善左衛門政言(さの ぜんざえもんまさこと。矢本悠馬)によって刺され、命を落としたのです。

表向きは「乱心」と処理されたこの事件。

しかし調べていくと、単なる怨恨では片づけられない、政言にとって5つの理由と時代背景が浮かび上がってきます。

理由① 政言の証言:これは「武士の意地」だった!

事件後、取り調べで佐野政言が語った「殺意の理由」はなんと5つもありました。しかも、どれもが武士の名誉に関わる内容だったのです。

① 家系図を返してくれなかった!

田沼意知は「見せてほしい」と言って、佐野家の家系図を借り受けます。

ところが、返却の催促を無視し続けた。武士にとって家系図は、家の歴史と誇りの象徴。それを返さないとは、名誉に対する侮辱でした。

② 領地を奪われた?

佐野家の領地内にあった「佐野大明神」という神社を、田沼が勝手に「田沼大明神」と改名して実効支配。

まさに「よそ者が土地を乗っ取る」行為。これまた大問題でした。

③ 家宝「七曜の旗」を奪われた!

田沼が「見せて」と借りたまま返さなかったのが、佐野家のシンボル「七曜の旗」。

田沼家も同じ紋を使っていたため、「うちのものだ」と主張して返さなかったとか。いや、それ、泥棒でしょう?

④ 出世の見返りに賄賂を要求

「出世させてやる」と田沼が言ったため、佐野は620両(現代換算で数千万円〜1億円超)もの賄賂を渡しました。

ところが、約束は守られず。完全に詐欺です。

⑤ 将軍の鷹狩での手柄を横取り

将軍の前で政言が雁を射止める大手柄を立てたのに、田沼が「これは政言の手柄じゃない」と報告。

他人の手柄として処理されてしまったのです。これには、政言のプライドもズタズタになります。

時代背景① 単なる私怨ではない!黒幕の存在があった?

一方で、この事件は「反田沼派によるクーデター」だったという説もあります。

① オランダ商館長の証言

長崎にいたオランダ商館長チチングは、著書の中で驚くべき記録を残しています。

政言の背後には複数の幕府高官がいた。当初は父・田沼意次を狙っていたが、高齢だったため息子の意知を標的にした。

つまり、政言は誰かに焚きつけられた“刺客”だったのでは?

② 松平定信の関与疑惑

田沼の政敵・松平定信は、「意知を刺し殺そうと何度も刀を懐に入れて出かけた」と自白しています。

事件後には老中に就任し、田沼の政策をことごとく潰しました。この流れを見ると、偶然とは言い難いですね。

③ 政言の辞世の句が意味深?

政言が残した辞世の句には、こんな一節があります。

こと人に 阿らで御国の 友とち(や) たたかひすつる 身はゐさきよし

「たたかひ」の相手が田沼意知だったとすれば、これはただの怨恨ではなく、“国のための戦い”と彼は考えていたことになります。

時代背景② 社会の歪みによる公憤

事件は、当時の社会的不満が爆発した象徴でもありました。

  • 田沼家は低い身分から異例の出世
    伝統的な名家出身の武士たちからは「出る杭」として嫌われていました。
  • 経済政策にも反発多数
    田沼は商業を重視した政策を推進しましたが、結果として米価が高騰し、庶民の生活は苦しくなっていました。
  • 賄賂政治
    その象徴として田沼は批判の的。政言の証言は、そんな世論を後押しするような内容だったのです。

【事件の余波】政言は「世直し大明神」に⁉

事件後、民衆の中には政言を「世直し大明神」と呼び、墓参りに殺到する人も。政言の墓には1日で現代換算22万〜112万円の賽銭が集まったという記録もあります。

一方、田沼意知の死は田沼政治の終焉を招き、松平定信による「寛政の改革」が始まりました

商業重視から農業重視へ、開国志向から鎖国へと、日本の方向性が大きく転換したのです。

なぜ、田沼意知は佐野善左衛門政言に殺されたのか?[まとめ]

佐野善左衛門政言が田沼意知を殺害した理由は、単なる私怨だけではありませんでした。

  • 個人の怒りと名誉
  • 政敵たちの陰謀
  • 社会構造と不満の爆発

この3つが複雑に絡み合い、「一人の武士の刃」はやがて、江戸幕府そのものの方向を変える力となったのです。

時代が動くとき、表舞台には立たない“もう一つの物語”がある。佐野政言の短い生涯は、まさにその象徴だったのかもしれません。