蔦屋重三郎がどのようにして寛政の改革で幕府から処罰を受けたのか、その背景やその後の生涯、さらに現代の「TSUTAYA」との関係について見ていきます。
重三郎は江戸時代後期の著名な出版業者で、特に浮世絵や洒落本の出版で広く知られていました。
彼は時代の波に翻弄され、財産を失いましたが、それでもなお印刷業を続け、多くの芸術家たちを支え続けました。
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蔦屋重三郎が寛政の改革により処罰された理由
寛政の改革(1787年~1793年)は、田沼意次の重商主義政策が失敗し、天明の大飢饉などの影響で幕府の財政が悪化したことを受けて行われました。
松平定信は、農業を中心とした経済政策を推進し、幕府の財政を立て直すことを目的とし、風紀の取り締まりや出版物の規制が強化されました。
1791年(寛政3年)、蔦屋重三郎は山東京伝の洒落本『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹麗』を刊行しましたが、これらの出版物が幕府の忌諱(きき)に触れました。
これにより、蔦屋重三郎は財産の半分を没収されるという厳しい処罰を受けました。また、山東京伝も50日間の手鎖の刑に処されました。
この処罰は見せしめ的な要素が強く、蔦屋重三郎のビジネスが成功し注目を集めていたことの証拠でもあります。しかし、この弾圧により狂歌ブームは収束し、蔦屋重三郎の出版物の人気も急速に衰えてしまいました。
※忌諱=嫌って避けること
蔦屋重三郎の処罰後の生活とその後
寛政の改革による処罰を受けた後、蔦屋重三郎はどのような生活を送ったのでしょうか。
蔦屋重三郎は、寛政の改革により財産の半分を没収されましたが、その後も出版業界で活動を続けました。彼は、才能ある作家や浮世絵師を支援し続け、特に喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を出版しました。
また、彼の家には多くの芸術家が寄寓し、生活の面倒を見ていました。
蔦屋重三郎は、寛政8年(1796年)から病気がちとなり、翌年の寛政9年(1797年)に48歳(数え歳)で亡くなりました。彼の死は、彼に世話になった多くの芸術家たちに大きな影響を与えました。
例えば、喜多川歌麿は蔦屋重三郎の死のショックで作風が変わったと言われています。
蔦屋重三郎没後の芸術家
蔦屋重三郎の没後、彼を支援していた芸術家たちの多くはそれぞれの道を歩み続けました。以下にいくつかの例を挙げます。
◼︎喜多川歌麿
喜多川歌麿は、蔦屋重三郎の支援を受けて多くの浮世絵を発表しましたが、重三郎の死後もその才能を発揮し続けました。彼の作品は依然として高い評価を受け、多くの浮世絵ファンに愛されました。
◼︎東洲斎写楽
東洲斎写楽もまた、蔦屋重三郎の支援を受けて多くの役者絵を発表しました。写楽の活動期間は短かったものの、その独特なスタイルは後世に大きな影響を与えました。
◼︎曲亭馬琴
曲亭馬琴(滝沢馬琴)は、蔦屋重三郎の家に寄寓していたこともありました。彼はその後も多くの作品を執筆し、特に『南総里見八犬伝』などの長編小説で知られるようになりました。
◼︎十返舎一九
十返舎一九もまた、蔦屋重三郎の家に寄寓していた一人です。彼はその後も執筆活動を続け、『東海道中膝栗毛』などの作品で人気を博しました。
蔦屋重三郎の支援を受けた芸術家たちは、彼の死後もそれぞれの分野で活躍し続け、その影響力は今なお感じられます。
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係について説明します。
蔦屋重三郎(1750年 - 1797年)は、江戸時代の著名な出版業者であり、浮世絵や洒落本などの出版で知られています。彼は多くの芸術家や作家を支援し、特に喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出しました。
一方、現代のTSUTAYAは、レンタルビデオや書店を運営する企業で、創業者の増田宗昭氏が「現代の蔦屋になる」という思いを込めて名付けました34。蔦屋重三郎の名前にあやかっているものの、直接的な関係はありません。
つまり、TSUTAYAの名前は蔦屋重三郎の影響を受けていますが、歴史的な繋がりはないということです。
蔦屋重三郎に関するよくあるQ&A
蔦屋重三郎の死因は?
蔦屋重三郎の死因は脚気でした。数え年で48歳です。
彼が亡くなった場所についての具体的な情報はありませんが、彼の活動拠点は江戸の新吉原であったため、新吉原で亡くなった可能性が高いです。
また、彼の死の際に家族が周りにいたかどうかについての情報も見つかりませんでした。彼には妻がいたことがわかっていますが、子供がいたかどうかは不明です。
蔦屋重三郎の家系図と子孫
蔦屋重三郎の家族についての情報は限られていますが、以下のことがわかっています。
- 父親:丸山重助
- 母親:津与
- 妻:結婚していたことはわかっていますが、妻の名前や詳細な情報は見つかりませんでした。
- 子供:子供がいたかどうかについての正確な情報は見当たりませんでした。
蔦屋重三郎の書店「耕書堂」はいつまであったの?
蔦屋重三郎の書店「耕書堂」は、彼が亡くなった後も続きました。重三郎が亡くなったのは1797年ですが、その後も「耕書堂」は存続し、4代目まで続いたことがわかっています。
蔦屋重三郎の墓とゆかりの地
蔦屋重三郎の墓は、東京都台東区東浅草にある正法寺にあります。彼の墓所は震災や戦災で失われましたが、現在は正法寺に蔦屋家の墓碑と重三郎母子顕彰碑が建てられています。
また、蔦屋重三郎のゆかりの地としては、以下の場所が挙げられます。
- 耕書堂跡(東京都台東区千束4丁目):彼が書店「耕書堂」を開業した場所です。
- 吉原遊郭跡(東京都台東区):彼が商いを始めたエリアです。
- すみだ北斎美術館(東京都墨田区):彼の愛した浮世絵の世界が楽しめる場所です。
蔦屋重三郎、寛政の改革により処罰される[まとめ]
蔦屋重三郎は、寛政の改革という厳しい時代に、多くの芸術家を支援する一方で、幕府の規制に抵触し処罰を受けました。
彼が支えた喜多川歌麿や東洲斎写楽は、重三郎の死後もその才能を発揮し続け、その影響は今も色濃く残っています。
現代の「TSUTAYA」という名称にも、彼の意図が受け継がれており、彼の業績が今日のエンターテインメント業界にまで影響を与えていることがわかります。