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洛中洛外図屏風(舟木家本)
(16世紀初めから17世紀中頃の150年間)

「浮世又兵衛」とあだ名された浮世絵の祖・岩佐又兵衛。

洛中洛外図屏風(舟木家本)
岩佐又兵衛(1578〜1650)筆。
左端に徳川家の二条城を配置し、右端に豊臣家の豊国廟を配置し、その間を東山から洛中までの賑やかな京の町が描かれています。主に名所を描いたものではなく、店や往来の様々な階層の人々の風俗そのものが主題になっています。特に、遊女町や歌舞伎小屋など新しい都市の歓楽の場に、感心が注がれています。
慶長19年(1614)の大坂・夏の陣を前にした緊迫した空気と、今を浮世と楽しむ人々の息遣いが伝わってくるような大作です。
肉付きのよい、ふっくらした頬と長い顎を持った豊頬長頤(ほうきょうちょうい)の顔、樹木の描写、人の視線を意識した人物の関係、人間の内面を暴き出すような画家の視点に特徴があります。これらの描写から、岩佐又兵衛は「浮世又兵衛」とあだ名され、浮世絵の祖となりました。
【大坂・冬の陣と夏の陣】
関ヶ原の戦い以後、将軍宣下を受けて天下を握った徳川家康にとって、豊臣氏の存在は非常に不安なものであった。家康が、豊臣秀吉の子・豊臣秀頼に圧力をかけ、神社仏閣の建設によって豊臣氏の財力をそがせるといった政策を実行するなか、方広寺の鐘銘事件が発生、これを契機に豊臣氏を挑発し、徳川氏との合戦に備える大坂城の攻囲に打って出たのが、冬の陣である。
大坂城の守りが固く、容易に破ることができなかったため、家康はいったん豊臣氏と講和を結んだが、その間に大坂城の堀を埋め、城郭や出城などを破壊した。再び戦いが始まり、慶長20(1615)年5月8日に大坂城は落城、秀頼は母淀君とともに自殺した。これを夏の陣という。(コトバンク)


洛中洛外図屏風(舟木家本)

歌舞伎図屏風

遊楽の中でも、のちに二大悪所とされた歌舞伎と遊里(遊郭)が、人々の関心を引きつけていました。
慶長8年(1603)、出雲の阿国(おくに)によって始められた歌舞伎踊りは、当時流行のかぶき者と呼ばれるファッションに身を包んだ無頼の徒の風俗を舞台に取り入れたものです。高貴な人々から大衆まで広い階級の人々の人気をえました。
阿国(おくに)をまねた追随者により「女歌舞伎」が演じられ、さらに遊女たちによる「遊女歌舞伎」も演じられました。
女歌舞伎図屏風
当時の主演目であった茶屋遊びの場面を描いたもので、歌舞伎図屏風としては最も古いものです。
女歌舞伎図屏風
四条河原遊楽図屏風
流行の三味線が用いられ、遊女の顔見せを兼ねた遊女歌舞伎。四条河原は伝統的な名所を背景としない新しい歓楽地であり、浮世の姿そのものを描いた作品です。
四条河原遊楽図屏風
祇園祭礼図屏風
もはや祭礼を神事として描くことなく、人物の表情や身振りに注目しています。
祇園祭礼図屏風
「カラー版・浮世絵の歴史」まとめ