※本ページにはプロモーションが含まれています。

洛中洛外図屏風

16世紀初めから17世紀中頃の150年間は、世の中に対する理解が、忌むべき憂世から肯定的に楽しむ浮世へと変わっていった時代です。

このころの絵画は、近世初期風俗画と呼ばれます。

応仁・文明の乱(1467〜77)で焦土と化した京都。そんな京の町を復興させたのは、室町幕府ではなく、商工業に従事する町衆でした。

「洛中洛外図屏風」京で暮らす人々を生き生き表現

失墜した京都はそれでも都であり、地方の大名たちの憧れの地でした。そんな京の町とそこで暮らす人々の姿を生き生きと描き残しているのが「洛中洛外図屏風」です。

これら3点の洛中洛外図屏風は、上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)の2つで一対の屏風として描かれており、「初期洛中洛外図」と呼ばれています。

多くの「名所絵」と、正月から順に季節が巡る「月次絵」の伝統を受け継いでいます。そこには、現実に生活する人々の姿が生き生きと描かれています。

洛中洛外図屏風とは?

京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵です。日本最古の「洛中洛外図屏風」は、1520〜30年代の景観を描いた「暦博甲本」(三条家本・町田家本)と「暦博乙本」、そして上杉家本が知られています。

洛中洛外図屏風(上杉家本)

洛中洛外図屏風

狩野永徳(1543〜1590)筆の「洛中洛外図屏風」は、天正2年(1574)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられています。「暦博甲本」と比べると、季節感は薄れ、町の賑わいがより大きく取り上げられています。

浮世を反映した風俗画。庶民が新しく都市の中心となり、未来が不確かな世の中を忌むべき憂世と捉えるのではなく、一期一会の夢とみなし、刹那的に楽しもうという浮世絵感が生まれました。さまざまな風俗画が発生し、文学では俳諧連歌が流行しました。

天文2年(1533)、室町幕府によって祇園祭が中止されましたが、下京の人々は神事がなくても山鉾の巡行を行いたいと申し出ました。これにより、祭りは神を祀る行事から人々のための行事に変わりました。

今や、祭礼図も神事を記録する絵から、庶民の生き生きした姿を描くものになっています。

和歌の名所や霊所を描いた名所絵は、大和絵の中心テーマとして描き継がれてきましたが、名所で遊ぶ人々の姿を主題にした「名所遊楽図」とでも呼ぶべきものになってきました。そのような作品の中で、最も古いものが「高雄観楓図屏風」です。

【山鉾】
神社の祭礼で引かれる山車の一つ。車台の上に家や山などの作り物を置き、その上に鉾や薙刀などを立てたもの。

高雄観楓図屏風(たかおかんふうずびょうぶ)

高雄観楓図屏風

狩野秀頼筆(年代不詳)の「高雄観楓図屏風」は、京都の神護寺と愛宕山の二つの霊所を背景とした名所絵であり、風俗画でもあります。

また、特定の名所を描かない「野外遊楽図」も描かれるようになりました。

花下遊楽図屏風(かかゆうらくずびょうぶ)

花下遊楽図屏風(かかゆうらくずびょうぶ)

狩野長信(1577〜1654)筆の作品には、春の野に遊ぶ美しく着飾った女性たちが描かれ、彼女たちが今の生を楽しんでいるかのように見えます。

もはや、背景にある寺院と思われる建物は宗教的な意味を失っています。

このように人々の姿を描く風俗画は、移動や取り外しができる屏風だけでなく、建物の障壁画にも描かれました。

浮世絵の近世初期風俗画①[まとめ]

16世紀初頭から17世紀中頃にかけて、日本では「憂世」とされていた現実を楽しもうとする「浮世」の考えが広まりました。

この時期、風俗画と呼ばれる新しい形式の絵画が発展しました。特に、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」は京都の賑やかな町やそこで生活する人々を鮮やかに描き、時代の楽しむ姿勢を映し出しています。

その結果、伝統的な名所絵に加えて、庶民の生活や祭りの風景を描く「名所遊楽図」などが登場しました。

これらの絵画は、屏風や建物の壁画としても描かれ、文化が大きく変化する中で、人々の生き生きした一瞬を捉えて表現しています。

『カラー版・浮世絵の歴史』参考・まとめ