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菱川師宣『見返り美人図』

「浮世」の絵

1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれました。江戸の地を土壌として約80年後に、新しい絵画が生み出されました。人々は、この新しい絵画を「浮世絵」と呼んだのです。
浮世絵や下に生えたる思い草
1681年(延宝9年)刊行の俳諧書『それぞれ草』の中の句に、「浮世絵」という言葉が出てきます。
浮世絵の「浮世」とは?
仏教の説く極楽浄土に対して、現世は憂いに満ちた忌むべき世界「憂世」。その「憂世」をただ悲観するのではなく、刹那的でも現実を楽しもうという庶民の人生観から、全く反対の明るい語感の「浮世」になりました。
1682年(天和2年)大阪で刊行された井原西鶴(1642〜93)著『好色一代男』にも、浮世寺、浮世比丘尼(尼さん)、浮世小紋などの語が出てきます。「浮世」には当世風、最新流行といった意味も含まれ、また好色の語感もあります。
江戸前期、大名諸公の家臣団の消費生活を支えるために、商人、産業に従事する者の家族などで、江戸の人口は膨れ上がりました。1657年の明暦の大火以降も、江戸は復興し、人々ともども活気に満ちていました。
出版界は、そんな人々の江戸への憧れをターゲットにしました。今までは手間がかかった高価な狩野派や土佐派の絵画ではなく、庶民が手に入れられる廉価な形式を工夫し、新鮮な画風も合わせ追求していたのです。
そんな江戸の出版界に一人の青年が現れ、浮世絵誕生のきっかけを与えました。
その青年の名は、菱川師宣(?〜1694)。

菱川師宣の登場

菱川師宣は房州(千葉県)安田の生まれ。染織品に刺繍や装飾を施す縫箔師でした。1684年(天和4年)刊行の『武者大和絵づくし』の序文にこうあります。
ここに房州の海辺、菱川師という絵師、船のたよりをもとめて、むさしの御城下に閉じこもり、自然に絵を好きになって、青柿(若者)のへた(下手)より心を寄せ、和国絵の風俗、狩野派・土佐派・長谷川派(雪舟派)を独学しながら工夫をして、一流の浮世絵師の名をとれり。
1672年(寛文12年)、菱川師宣は初の著名入り絵本『武家百人一首』を刊行しました。庶民相手の挿絵画家が、作品に初めて著名した事例になります。それはまた、社会の表舞台に浮世絵師が登場した歴史的な作品になりました。
菱川師宣は、吉原遊郭、歌舞伎役者の評判記、名所案内記、職人や美人づくしの風俗画、古典物語・和歌の解釈本、好色本など多方面で活躍し、圧倒的な人気をえました。
吉原恋乃道引
前半は、両国橋から吉原までの道のりを師宣の絵と文章で表現。後半は、大門口から始まる廓内から、花魁道中を眺める嫖客(ひょうきゃく:遊客)たちを描写した吉原の案内書です。
もはや文章をおぎなう挿絵ではなく、絵が大部分を占める絵画本ともいうべきです。
菱川師宣『吉原恋乃道引』
【出展:日本の古本屋

一枚摺(ずり)の成立と菱川工房

絵の魅力に特化した『絵主文従」からさらに進んで、菱川師宣は絵を本という形式からも独立させ、一枚摺の版画としての浮世絵を確立しました。
『低唱の後』
12枚一組の春画集。普通は墨一色ですが、この作品は摺った後に筆で彩色をほどこした贅沢な高級品です。
菱川師宣『低唱の後』
さらに、師宣は上層な人々向けに高級な肉筆画にも進出しました。掛幅、絵巻、屏風などに吉原や芝居風俗、花見、夏の船遊びなどを題材に緻密な描写と豪華な色彩を施しました。
菱川師宣『見返り美人図』
「寛文美人図」の古様式を受け継ぎながら、最近流行の衣装と髪形の美人が優雅に振りむいています。プレミアがついた切手にもなった菱川師宣の代表作です。
菱川師宣『見返り美人図』
また、師宣のもとに集まった若者絵師が「菱川派」を形成し、工房を立ち上げました。『美人遊歩図』(下の絵)を描いた師宣の子・師房、『三弦を弾く美人図』の高弟・師重などが集まりました。
菱川師房『美人遊歩図』
師宣と同時代の杉村治兵衛『小式部内侍』
同時代の師宣に匹敵する浮世絵師に杉村治兵衛(生没年不詳)がいます。治兵衛は組物ではなく、1枚で完結する人物像を発表し、真の一枚摺の確立に大いに貢献しました。治兵衛の『小式部内侍(こしきぶのないし)』は、和泉式部の娘が北野天満宮で読んだ和歌にまつわる伝説を主題に、流行の衣装と髪形の当世美人に置き換えた見立絵です。
杉村治兵衛『小式部内侍』
「カラー版・浮世絵の歴史」まとめ