「洛中洛外図屏風(舟木家本)」は、16世紀末から17世紀初頭の京都の景色と人々の生活を生き生きと描いています。
徳川家の二条城から豊臣家の豊国廟までを背景に、遊女町や歌舞伎小屋といった都市の賑やかな場面が描かれ、そこに暮らす人々の活気と緊迫感が表現されています。
この作品を手がけた岩佐又兵衛は、肉感的な人物描写と独特の視点で浮世絵の先駆者とされ、「浮世又兵衛」とあだ名された人物です。
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「浮世又兵衛」とあだ名された浮世絵の祖!
洛中洛外図屏風(舟木家本)
洛中洛外図屏風(舟木家本)では、左端には徳川家の二条城、右端には豊臣家の豊国廟が配置され、その間には東山から洛中までの賑やかな京の町が描かれています。
この作品では名所だけでなく、店や往来のさまざまな人々の生活風景が主題となっており、特に遊女町や歌舞伎小屋など新しい都市の歓楽の場が注目されています。
また、慶長19年(1614年)の大坂・夏の陣を前にした緊迫した空気と、浮世を楽しむ人々の生活感が作品から伝わってきます。
岩佐又兵衛の作風は、肉感的でふっくらとした頬と長い顎を特徴とし、樹木の描写や人物の視線を通じて人間の内面を描き出す視点が際立っています。
こうした描写から、「浮世又兵衛」というあだ名が付けられ、彼は浮世絵の先駆者とされています。
大坂・冬の陣と夏の陣
関ヶ原の戦い以後、徳川家康は将軍として天下を統べる立場にありましたが、豊臣氏の存在は彼にとって大きな脅威でした。特に、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼に対して家康は圧力をかけ、神社や仏閣の建設によって豊臣氏の財政力を削ぐ政策を推進しました。
この政策の中で、方広寺の鐘銘事件が起こり、これを契機に豊臣氏との対立が激化しました。徳川家は豊臣氏との合戦に備え、大坂城を攻囲する動きを見せ、その一環として行われたのが「冬の陣」でした。
しかし、大坂城の守りが固く、容易に攻略できなかったため、家康は一時的に豊臣氏と講和を結びました。その間に大坂城の堀を埋め、城郭や出城を破壊する準備を進めました。再び戦いが始まり、慶長20年(1615年)5月8日に大坂城は落城し、秀頼は母淀君とともに自害しました。
この戦いは「夏の陣」として知られています。
歌舞伎図屏風
遊楽の中で特に人々の関心を引いたのが、後に二大悪所とされる歌舞伎と遊里(遊郭)でした。
慶長8年(1603年)、出雲の阿国(おくに)によって始められた歌舞伎踊りは、かつてないファッションで身を包んだ無頼の徒の風俗を舞台に取り入れたものでした。これは「かぶき者」と呼ばれ、高貴な人々から大衆まで広い階級の人々に人気を博しました。
阿国に触発された追随者たちによって「女歌舞伎」が演じられ、さらに遊女たちによる「遊女歌舞伎」も登場しました。
女歌舞伎図屏風
当時の主演目であった茶屋遊びの場面を描いたもので、歌舞伎図屏風としては最も古いものです。
四条河原遊楽図屏風
流行の三味線が用いられ、遊女の顔見せを兼ねた遊女歌舞伎。四条河原は伝統的な名所を背景としない新しい歓楽地であり、浮世の姿そのものを描いた作品です。
祇園祭礼図屏風
もはや祭礼を神事として描くことなく、人物の表情や身振りに注目しています。
浮世絵の近世初期風俗画②[まとめ]
岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風」は、都市の活気と人々の生活を生き生きと描き出し、浮世絵の誕生に大きな影響を与えました。
彼の作品は、絵の中に登場する人々の表情や仕草を通じて、時代の現実と新しい喜びの場での日常を表現しています。
この時代、歌舞伎や遊里などの大衆文化が花開き、多くの芸術が街の楽しさや人々の生きる姿を描きました。
このように、屏風絵や舞台芸術を通じて、庶民の日常や新しい生活様式が広く描かれるようになったのです。
『カラー版・浮世絵の歴史』参考・まとめ