寛永時代(1624~1644年)には、狩野派に替わり、様々な町絵師たちが風俗画を手掛けるようになりました。
これまでの風俗画や名所絵は、伝統的な場面描写から人々の日常や遊里をテーマにした「仕込み絵」に変わっていきました。
町絵師たちは、遊里や歌舞伎などの世相を色濃く映した作品を制作し、当時の生活や風景を生き生きと描いています。
寛永期風俗画
寛永時代(1624〜44)には、狩野派にかわって流派不定の町絵師たちが風俗画の担い手になります。
狩野派の中心の狩野探幽(1602〜74)が主導する江戸狩野派は、風俗画から手を引きました。
また、風俗要素を強めていった名所絵や月次絵も、ふたたび元の名所や行事の景観を描くことに戻りました。
一方、風俗画は町絵師によって「仕込み絵」となっていきます。
遊里(遊郭)の楼内と往来
露殿物語絵巻(六条三筋町)
中世の憂世感をひいた物語ですが、浮世の風俗に強い関心があったようです。六条三筋町の場面では、当時の遊里が生き生きと描かれています。
遊里図屏風
遊里の楼内と往来を組み合わせ、遊里の時世粧(じせいそう:ボストン美術館)をよく表しています。
【時世粧】流行のよそおいやはやりのかっこう。
遊楽図屏風(相応院屏風)
尾張徳川家初代藩主の生母・相応院の遺愛品との伝承があります。
遊里を今生の浄土とすれば、このような絵が生まれ愛されるのも納得できます。
風俗図屏風(本田平八郎姿絵)
本田平八郎と千姫の恋物語を描いたものとされ、背景をなくし、恋文を交わす二人を大きく描いたものです。人物に焦点を与え、物語性を際立たせています。
風俗図屏風(彦根屏風)
遊里の中、室内にまで入りこみ、個人の魅力を描き出そうとします。
金地に15人の人物を配した室内遊楽図ですが、浮世を楽しむ活気はなく、人々の動きも静的な感じです。
寛永6年(1629)、江戸幕府による風俗統制政策により、遊女歌舞伎は禁止されます。
寛永7年(1630)には、六条三筋町の遊里も島原に移転されました。こうして、町を闊歩していたかぶき者も、姿を消していきます。
湯女図と機織図屏風
右側に男の姿が描かれていたと想像される背景のない美人画「湯女図(ゆなず)」。
職人尽絵の伝統をひいた労働図「機織図屏風」など、物語性を基調にして、女性の美しさの表現に主眼を置いています。
このように女性の美しさを表現した寛永期を中心とした風俗画は、初期肉筆浮世絵と呼ばれることもあります。
舞踊図屏風
屏風の一扇に一人ずつの美人を描きとめる作品。これを通して、掛福の中に一人立ちの美人を描く作品が生まれていきます。
寛文美人図(1661〜71)
掛福に美人を描く形式は、肉質浮世絵の基本スタイルとして受け継がれていきました。その中で最も古い作品が、縁先美人図です。
縁先美人図
場を規定する縁先という背景が描かれ、『伊勢物語』の〈河内越〉を基にした作品。このような独り立ちの美人図は、寛文時代(1661〜71)にはやり、寛文美人図と総称されます。
八千代太夫図
珍しく絹本に描かれています。八千代自賛の和歌も書かれています。1649〜58年、島原の太夫職にあった名妓・八千代。七宝に桐の定紋の小袖を着た姿で描いています。
プロマイドとしての遊女の肖像画です。伝右近源左右衛門図のように、遊女だけではなく、役者を描いたものもあります。
江戸名所遊楽図
この時期の絵画は、上方を中心に発達しましたが、江戸を描いた作品もすでに生み出されていました。17世紀後半には、江戸の町を消費地と想定された江戸自前の文化も形成されつつあったのです。
寛永期風俗画から寛文美人図へ[まとめ]
寛永期には、遊里や庶民の生活を描く風俗画が中心となりました。
作品には物語性が強調され、本田平八郎と千姫の姿を描いた屏風や、遊里を描いた屏風などがあります。特に女性の美しさが重視され、初期の肉筆浮世絵としての基礎を築きました。
寛文時代には、美人画が流行し、「寛文美人図」として広まりました。それと同時に、江戸にも新たな美術の潮流が生まれ、江戸自前の文化が形成されつつあったのです。
『カラー版・浮世絵の歴史』参考・まとめ